『図書館の魔女』勉強会 第一巻 1やまざとでのさいごのいちにち①

P12

 L3 粟立ちを生じ  鳥肌がたつこと。寒い季節なんですね。

 L5 床の草履(ぞうり)を足で探った。

 草履?……イラストが挿入できず、半日過ぎてしまったので、とりあえずイラスト無しでいきます。

 草履というのは、足を置く台に「鼻緒(はなお)」がついていて、足の親指と人指し指でそれを挟んで履くものです。あれは古くからあるものなのかな?あれ?と疑問に思ったので勉強してみました。こんな風に、私の疑問を自分がなんとなく納得する程度に解決していこうと思います。

  

 まず、鼻緒のある履き物が西洋にもあるのかな、と思って靴の歴史の本を見ました。

『Shoes シューズ イラストでわかる靴のデザイン 古代から現代まで』

著者:ジョン・ピーコック  John Peacock 訳・日本語監修:徳井淑子(とくいよしこ) 訳:小山直子(おやまなおこ) マール社 2018年

 地元の図書館で見つけたのですが、大変面白い本でした。800点近い手描き風のカラーイラストで、古代から現代までの靴のデザインが紹介されている資料集です。巻末に世界の主要な靴デザイナーやメーカーの一覧が掲載されています。AdidasとPumaの設立者が兄弟だなんて、知らなかったよ!

 で、鼻緒があるかどうか。

 紀元前2000年頃の古代エジプトのサンダルというものがありました。台の部分は植物繊維を組み合わせたような感じで、「撚(よ)りをかけたヤシの繊維の紐を親指と人指し指の間に通す」。草履そのものですね。まあ、人間の身につけるものだから、そう大きく変わることはないのかな。「草履」が日本文化独自のものというわけではないと。

 この本面白かったです。割と早い時期から足全体を覆う「靴」の形になってきて、紀元前のメソポタミアには長い「ブーツ」も履かれていたのだとか。欲をいえば、それぞれのイラストの元になった遺物の出典がわかりやすく書いてあればなあ。

 で、「草履」。

 日本史の中で「草履」の文字は平安時代の書物に現れているようです。平安時代の国語辞書ともいうべき『和名抄(わみょうしょう)』には「草履 佐宇利」とあるそうです。「草履」の読み方が「さうり」だということですね(語源由来事典 gogen-allguide.comより)。

 じゃあ漢語の元の中国ではどうかというと、歴史書後漢書』にその語があるそうです(日本大百科全書ニッポニカ「草履」より)。後漢は紀元25年〜220年にあった国です。ただし、この「草履」が現在の日本の「草履」と同じものを指しているかどうかは確かではありません。

「履」は履き物全体を指す言葉で、その材質によって「草履(そうり)」「木履(もくり)」「麻履(まり)」「絲履(しり)」「革履(かくり)(鞜とも)」というそうです。(日本大百科全書ニッポニカ「履(くつ)」より)。そして、それは鼻緒のある履き物ではなくて、現在の「靴」の形状をしたもののようです。

 でも、少なくとも平安時代の人々が「草履」らしきものを履いていたらしいことは「絵」を見るとわかります。

 『扇面法華経冊子(せんめんほけきょうさっし)』は四天王寺(大阪)に伝来したもので、扇型の用紙にお経が書かれているのですが、その背景に当時の人々の生活シーンと思われる絵がカラーで描かれているのです。成立は12世紀半ばとみられています。今回は文化庁監修『国宝』第2巻絵画Ⅱ(昭和59年毎日新聞社刊行)の図版で調べてみました。

 木靴と見られる履き物をはいている女性、壺装束(つぼしょうぞく)をしている女性は多少身分のある女性かとみられますが、歯の高い下駄を履いています。僧形の人物も下駄。頭に荷を載せて歩いている女性が履いているのは歯が見えないけれど、明らかに鼻緒だけなので、これは草履でしょう。

 『信貴山縁起(しぎさんえんぎ)』は奈良県生駒郡にある朝護孫子寺に伝わる絵巻で、「人物の表情や躍動感を軽妙な筆致で描いた絵巻の一大傑作」(ウィキペディア)と言われるように、人々が生き生きと描かれている名品です。成立は平安末期とみられます。

この中には明らかに「草鞋(わらじ)」を履いていると見られる人が描かれています。鼻緒の他に、かかとや足首に紐がかかっているからです。馬の手綱をとる従者や、旅人が草鞋です。また、裸足の人も結構います。

 そう「裸足」。

 『伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)』も日本四大絵巻のひとつに数えられる、平安時代末期に成立した絵巻です。炎上する応天門の場面が有名ですが、その火事に驚いて飛び出してきたのでしょうか、人々はみんな裸足です。他の場面でも、履き物を履いている人もいれば裸足の人もいます。

 ちょっと面白いなと思ったのは、「草履」の歴史を調べている中で見つけた「跣足禁止令(せんそくきんしれい)」のこと(日本大百科全書ニッポニカ「草履」)。

 外を裸足で歩くな、「靴をはけ!」という命令ですね。1901(明治34)年に警視庁から出されているそうです。車夫・馬丁や職人などの労働者の多くが、この時まだ「裸足」が普通だったのか、と驚きました。

 草履の歴史では大正時代になって「ゴム」裏草履というものが出てくるのだそうです。おお、ビーサンかぁ。と、思ったら大間違い!

 「ビーチサンダル」は1952(昭和27)年に、アメリカの工業デザイナー レイ・パスティン氏か考案し、日本のゴムメーカー内外ゴムの技術によって生み出されたものなんですね!知らなかった。

   マ ー そんなことも知らないのか!

 はい、無学者ですいません。知りませんでした。では、「ゴム草履」と何が違うのか。ビーチサンダルには「左右がある」のです。一方、少なくとも現在の「日本の草履」に左右の違いはないのです。最初に紹介したエジプトのサンダルは「左足用」でした。鼻緒の前寄りの位置が右に寄っているのですね。

 「草履」は遺跡からの出土がすくないのか、歴史がうまく追えません。でも、「縄文のポシェット」に見られるような技術を持った人々が、足を守るための道具を作らなかったとは思えないのですが・・・。材質的に土の中では形をとどめないのかもしれません。

 一方「下駄」の方は、遺跡からの出土品があるようで、web上にもいくつか興味深いサイトがありました。

 ひとつは広島県はきもの共同組合さんの『げたのSITE』。「広島県福山市松永はかつて年間5600万足下駄を作っていた」のだそうですね。知らなかった!松永には「はきもの資料館」があって、その歴史が辿れるようです。この『げたのSITE』も図版が豊富で分かりやすくなっています。

 もうひとつは下駄屋さんのページ。ズバリ『下駄屋.jp』。浅草の辻屋本店さんのものです。こちらはご自身のコレクションでしょうか、「仕事のための下駄」の図版が豊富で楽しいです。

 また、『Science Portal China 』というサイトにあった 朱新林 ZHU Xinlinさんの「中国にも下駄はあった」という内容の記事も興味深かったです。古い文献の中に見られる「下駄」について紹介してくださっていて、「足下(そっか)」が相手に用いる敬称として使われるようになったいわゆる「語源説話」的な話や、「謝公(しゃこう)の屐(げき=下駄のこと)」の話です。「謝公の屐」は2本の歯が着脱可能な下駄で、山登りで登るときは前の歯を外し、下る時は後ろの歯をはずすのだそうです。なるほど!一本歯の下駄はそういう意味だったのか!だから、天狗は一本歯の高下駄をはいているのですね。ちなみに現在では健康のために一本歯の下駄を履こう!という方がいらっしゃるようで、検索するとお店のサイトがたくさん出てきます。

 出土品によって下駄の歴史をたどっていくと、古い時代それらの前寄りの穴は左右どちらかに寄っている、つまり「左右がある」履き物なのだそうです(日本大百科全書ニッポニカ「草履」)。それから時代が下がって9世紀前半、平城京跡から出土した80点以上の下駄のうち約80%が「前寄りの穴が中央に位置している」ものになるのだそうです。「左右がない」履き物になってきたということですね。この「左右がない」ことが日本独特のはきものだそうです。

 えー「草履」でした。

 なんだか脈絡がなくなってきてしまいました。私としては絵巻をしみじみ眺めたり、web上をあちらこちらさまよったりして楽しくかったです。でも、どこまでも広がっていってしまいそうなのでこの辺りで一区切りさせていただきます。

 ただ、キリヒトは「室内で履き物を履く」生活をしているんだな、とも思いました。

 まだ、5行目だよ。